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日記、雑記
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 前回の記事へのコメントに「山へ追いやられた人々」や「地名起源説話」について書かれていたので、それに関連した話をひとつ。有名なものなのでご存知の方は流し読み下され。

 これは『出雲国風土記』に記されている話である。ある時、ある農民のところに目一つの鬼がやって来た。そしてその鬼は農民を喰らってしまった。その農民の両親は恐ろしさのあまり、竹やぶの中からただ見守ることしかできなかった。竹の葉はかさかさと鳴り(竹の葉動(あよ)けり)、農民は喰われながら動動(あよあよ)と呻いた。これ以後、その地は「阿欲」(あよ)と呼ばれるようになったという。

 物語はこれだけの非常に簡潔なものである。文献史上最古の鬼の記事とされているが、この話のメインはあくまでも阿欲(現在の阿用)の地名起源説話である。これだけの記事では内容がよくわからないのは確かであるが、ここにもキーワードと思われるものが見られる。
 それは鬼が一つ目であったというところだ。一つ目というのは、言うまでもなく鍛冶神の特徴である(鍛冶師が火を見るために片目をつぶるからとか、火を見続けるために片目になる者が多いから、など諸説ある)。有名な天目一箇神もまた一つ目である。また鍛冶神が零落した姿とされる一本ダタラという妖怪は片目片足である(片足もまた鍛冶神の象徴)。それ故にこの話の目一つの鬼も鍛冶神であった疑いがある。そして鍛冶の民は山の民でもある。話の舞台となった地域は、たたら製鉄の盛んな地域でもあった。もしかしたらこの話の裏には住民間の対立の構図があったのかもしれない。

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 さて前回は八束脛(ヤツカハギ)の話をした。こういった巨人伝説の類は全国各地に見られるが、それはともかくとしてこの物語には重要なキーワードが隠されている。所詮、昔話だろうと言うなかれ、伝承には何らかの真実が含まれているものである。
 問題はズバリその名前に表れた身体的特徴である。八束脛、八握り分の脛。八握りはオーバーであるにせよ、要するにここで言いたいのは「足が長い」という点であろう。またここで記紀を読んだことがある人なら、八束脛と似たような意味の名前を持った人物に思い当たるのではないだろうか。そう、長髄彦(ナガスネビコ)である。これも脛が長いことを表している。しかしこれだけでは大きい人が2人いた、というだけの話で終わってしまうのだが、この身体的特徴は何も個人的なものではない。この手足が発達しているというのは、古モンゴロイド系の特徴の一つであるらしい。狩猟採集を主としていた、一般的に縄文人とされる人種である。そう考えると、土蜘蛛という蔑称を与えられた人々も、手足が長いという身体的特徴から付けられた可能性がある。
 そういえば八束脛は縄文人と同じく穴居民であった。もしかしたら彼は古い一族の生き残りだったのかもしれない。

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 前回、羊太夫とそれのお供をしていた童子・八束小脛の話をした。ところで八束小脛に名前が酷似していることから、しばしば引き合いに出されるのが八束脛(ヤツカハギ)である。最もこちらは童子ではなくて巨人である。この話が伝わっているのは群馬県の沼田市近辺とのことなので、例の多胡碑のある辺りから見るとだいぶ北のほうになる。ではまずざっと八束脛の物語を紹介しよう。
 
 利根川を遡ったところにある集落で、頻繁に作物が盗まれるという事件が起こった。盗人は夜の間にやってきて、作物を根こそぎ奪っていくのである。そこで人々は相談の上で見張りを立てることにした。すると夜、藤蔓で編んだ籠を背負った大男が現れ、作物を籠一杯に詰め込んで去っていった。見張りがこっそりと後を追うと、垂直に切り立った大岩に出くわした。見上げるとその大男は垂らしてある藤蔓を器用に使って岩をよじ登り、上の方にある洞窟へと消えていった。見張りはそれを確認してから戻り、皆と相談の結果、藤蔓を切れば大男は二度と降りてこられないだろうということになった。そしてさっそく藤蔓を切ってしまったという。
 確かに大男は二度と姿を見せなかった。しかし、その後集落には疫病が広まり、人々は大男の祟りに違いないと思い、あの洞窟へと再び訪れた。苦心して洞窟に入ると、そこには見るからに巨大な人骨が散乱していたという。人々が大男の骨を拾い集め手厚く祀ると疫病は治まったという。なおこの時、この大男の骨の特に脛の部分が、人の手で八掴みあったところから、八束脛と呼ばれるようになったという。八束脛は八束脛神社に祀られている。

 以上が簡単なあらましである。八束小脛と八束脛には直接的な関わりはない。八束小脛のその後の姿が八束脛だという説もあるが、これは想像の域を出ないのでなんともいえない。いずれにせよ、なかなか面白い伝承である。

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 本当は狛犬話の続きを書こうと思ったのだが、飽きてきたのでやめ・・・(ああ、石を投げないでください)
 だって、羊の狛犬は全国にいくつかあるけれど、たいした由来はないんだもの…。
 そもそも羊は日本にはあまり馴染みのない動物でだ。記録上、初来日はけっこう古く、推古天皇七年の記録にラクダやロバと共に百済から献上されたとの記述が、『日本書紀』に見られる。その後も江戸時代までの間に幾度か持ち込まれたらしいのだが、気候的に飼育が難しかったらしく、本格的に飼育されるのは明治以降になる。故に日本人にとっては、十二支の中では同じく日本にいない虎や動物ですらない龍以上に馴染みのない存在だったようだ。他所では生贄として人気ものなのにね。
 とこれだけではちとさびしいので、羊に関連する人の話を。といっても単に名前が羊太夫というだけで、動物とは関係ないけれど。
 羊太夫(宗勝という名らしい)は朱鳥九年というから695年生まれ。かなり古い時代の人物だ。名の由来はご想像の通り「未年、未の月、未の日、未の時」に生まれたから。現在の群馬県の人だが、朝廷の会議に毎日出席し、未の時(午後2時~4時)に終えると申の時(4時~6時)には地元に帰っていたという。高速移動である。そのお供をしていたのが八束小脛(やつかこはぎ)という童子で、馬で行く主人に徒歩でついていったとされる。というのもこの童子の両脇には羽根が生えていたからだ。ある時、羊太夫がふざけてこの羽根をむしってしまうと、お供をすることができなくなり、太夫もまた会議をさぼるようになった。結果、謀反を疑われ、羊太夫はあえなく討伐されましたとさ。
 ちなみに群馬県には多胡碑という有名な史跡があり、これに「羊」の文字が見え、以前から謎とされてきたが、どうやら郡司をしていた人物の名ではないか、とされている。果たしてこれが羊太夫なのかどうかは、不明と言うしかないが、地元の人はこの碑文を羊太夫の墓として祀ってきたという。

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 奇跡的に(?)前回の続き。
 前回変わった狛犬があるということでいくつか紹介したが、それについて補足しようと思う。何故にそんなものが置かれたのかなどだらだらと。
 まず猪の狛犬(というのも変な話だが・・・)がある護王神社。ここは有名なので知っている人も多いだろうから、簡単に述べよう。祭神は和気清麻呂と和気広虫の姉弟。由縁は、神護景雲三年(769年)に宇佐八幡の神がそのころ孝謙天皇の寵愛を受け、権勢を極めていた僧・道鏡を天皇にせよ、との託宣を下したことから始まる。孝謙天皇は再度確認するために使者として和気広虫を派遣することにしたが、広虫は代理として弟の清麻呂を送った。清麻呂は先の託宣が偽りであることを見抜き、道鏡を排除せよとの託宣を受け取った。これに怒った道鏡は、清麻呂の官位を奪った上で名を別部穢麻呂とされ、さらに手足の筋を切られて追放された。後から止めを刺すべく刺客までが追って来たが、突如猪の大群が現れ、清麻呂を護衛したために無事に目的地に辿り着けたという。その後、道鏡が失脚したのはご存知のことと思う。
 ちなみに護王神社は足の病や怪我に御利益があるという。おそらく清麻呂の足の怪我が治癒したことに由来するのだろう。
 この話では神社では猪は神使という扱いだが、猪自体が神である、ということも多い。すぐに思い浮かぶのが日本武尊が、その命を失うきっかけとなった伊吹山の神である白猪であろう。また猪は摩利支天の使いともされている。
 次回は、羊・・・かな。

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