日記、雑記
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
気が向いたので、続き。
古墳の築造年代の一つの鍵となっているのが、埼玉県行田市の稲荷山古墳から、1983年に発掘された鉄剣である。国宝に指定されている。この剣には銘が刻まれており、全部で115の文字が金象嵌されている。まずその銘文を以下に記す。
さて、ここで注目されるのが太字で示した「獲加多支鹵大王」である。この「獲加多支鹵」は一般的に「ワカタケル」であるという説が有力である。では大王と呼ばれるワカタケルは誰か。記紀を見る限りワカタケルの名をもつ天皇は一人しかいない。それは雄略天皇である。これからここに記された辛亥年が471年だと推定されるわけである。
ところがこの説には問題がある。まず天下を左治したという重臣・乎獲居巨は、記紀のどこにも見当たらない。古墳や鉄剣を見てもわかるように、かなりの権力を持った人物であったことは間違いないにも関わらず、である。そしてもう一つの、いや最大の問題点は獲加多支鹵大王=雄略天皇とした場合、その名が記されていること自体おかしいのである。何故かというと「ワカタケル」は雄略天皇の諱であるからだ。それを臣下の者が口にしたりこういう形で記すことはない。
よって獲加多支鹵大王は天皇ではないものの、大王と呼ばれるほどの勢力をもった別の人物であると推定される。
長くなったので続きはまた別の機会に・・・。
古墳の築造年代の一つの鍵となっているのが、埼玉県行田市の稲荷山古墳から、1983年に発掘された鉄剣である。国宝に指定されている。この剣には銘が刻まれており、全部で115の文字が金象嵌されている。まずその銘文を以下に記す。
| (原文) | (訓読) |
| 辛亥年七月中記、 | 辛亥年七月中記す、 |
| 乎獲居巨、 | 乎獲居巨 |
| 上祖名意富比垝、 | 上祖の名は意富比垝、 |
| 其児多加利足尼、 | 其の児は多加利足尼、 |
| 其児名弖已加利獲居、 | 其の児の名は弖已加利獲居、 |
| 其児名多加披次獲居、 | 其の児の名は多加披次獲居、 |
| 其児名多沙鬼獲居、 | 其の児の名は多沙鬼獲居、 |
| 其児名半弖比 | 其の児の名は半弖比 |
| (原文) | (訓読) |
| 其児名加差披余、 | 其の児の名は加差披余、 |
| 其児名乎獲居巨、 | 其の児の名は乎獲居巨、 |
| 世々為杖刀人首、 | 世々杖刀人の首と為り、 |
| 奉事来至今、 | 奉事し来たりて今に至る、 |
| 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、 | 獲加多支鹵大王の寺は斯鬼宮にあり、 |
| 吾左治天下、 | 時に吾れ天下を左治し、 |
| 令作此百練利刀、 | 此の百練の利刀を作らしめ、 |
| 記吾奉事根原也 | 吾が奉事の根原を記すなり |
さて、ここで注目されるのが太字で示した「獲加多支鹵大王」である。この「獲加多支鹵」は一般的に「ワカタケル」であるという説が有力である。では大王と呼ばれるワカタケルは誰か。記紀を見る限りワカタケルの名をもつ天皇は一人しかいない。それは雄略天皇である。これからここに記された辛亥年が471年だと推定されるわけである。
ところがこの説には問題がある。まず天下を左治したという重臣・乎獲居巨は、記紀のどこにも見当たらない。古墳や鉄剣を見てもわかるように、かなりの権力を持った人物であったことは間違いないにも関わらず、である。そしてもう一つの、いや最大の問題点は獲加多支鹵大王=雄略天皇とした場合、その名が記されていること自体おかしいのである。何故かというと「ワカタケル」は雄略天皇の諱であるからだ。それを臣下の者が口にしたりこういう形で記すことはない。
よって獲加多支鹵大王は天皇ではないものの、大王と呼ばれるほどの勢力をもった別の人物であると推定される。
長くなったので続きはまた別の機会に・・・。
PR
しばらく前のことだが、ニュースで「仁徳天皇陵が世界遺産の国内暫定リストに入った」というのを読んだ。興味がない人には、いいんじゃないの、くらいの記事だが、これには実はいろいろと問題がある。
まず一番の問題は、一般に仁徳天皇陵と呼ばれている大仙古墳であるが、実はその被葬者が仁徳天皇であるかどうか、はっきりしないということだ(ちなみに私は違うと思う)。これもあって昔は教科書にも「仁徳天皇陵」と書かれていたものが、「伝仁徳天皇陵」とか「大仙古墳」と書かれるようになった。最も、認知度は低いが・・・。
そもそも天皇陵というのは宮内庁の管轄で、学術調査なども基本的に行うことはできない。そのために正確な被葬者を突き止めることは非常に難しい。ちなみにある古墳を○○天皇陵と定めるのも宮内庁である。主に記紀や延喜式に記された天皇陵の所在地から推定して、それに古墳を当てはめているのだが、後の時代の天皇の古墳の方がそれより昔の時代の天皇の古墳より古いなどという矛盾があり、あまり信用できない。
また古墳の被葬者が未だもって確定しない理由の一つには、梅原猛が主張するように日本の学者(学会でもよいが)の体質がある。考古学者は発掘品だけ、文献史家は文献だけ、建築史家は古墳の形状だけ、美術史家は美術品だけ・・・というように過度の分業化が進んだ結果、それぞれの主張が食い違って総合的な結論がでないのである。その一方で宮内庁の定めた被葬者を無批判で受け入れた上で、論を進めたりもするから、大きな矛盾を生んでしまうのである。こんな状態で世界遺産登録なんて笑われるだけだからやめた方がいいと思うのだが・・・。
と、長くなったのでこの辺で。次回に続く・・・。読む人がいれば(笑)
まず一番の問題は、一般に仁徳天皇陵と呼ばれている大仙古墳であるが、実はその被葬者が仁徳天皇であるかどうか、はっきりしないということだ(ちなみに私は違うと思う)。これもあって昔は教科書にも「仁徳天皇陵」と書かれていたものが、「伝仁徳天皇陵」とか「大仙古墳」と書かれるようになった。最も、認知度は低いが・・・。
そもそも天皇陵というのは宮内庁の管轄で、学術調査なども基本的に行うことはできない。そのために正確な被葬者を突き止めることは非常に難しい。ちなみにある古墳を○○天皇陵と定めるのも宮内庁である。主に記紀や延喜式に記された天皇陵の所在地から推定して、それに古墳を当てはめているのだが、後の時代の天皇の古墳の方がそれより昔の時代の天皇の古墳より古いなどという矛盾があり、あまり信用できない。
また古墳の被葬者が未だもって確定しない理由の一つには、梅原猛が主張するように日本の学者(学会でもよいが)の体質がある。考古学者は発掘品だけ、文献史家は文献だけ、建築史家は古墳の形状だけ、美術史家は美術品だけ・・・というように過度の分業化が進んだ結果、それぞれの主張が食い違って総合的な結論がでないのである。その一方で宮内庁の定めた被葬者を無批判で受け入れた上で、論を進めたりもするから、大きな矛盾を生んでしまうのである。こんな状態で世界遺産登録なんて笑われるだけだからやめた方がいいと思うのだが・・・。
と、長くなったのでこの辺で。次回に続く・・・。読む人がいれば(笑)
この間、ショーロホフの大作『静かなドン』を読んだ。前から完全な形で読みたいと思っていたし、それに内容もとても満足できるものであったが、とにかく長かった。ソ連で映画かもされたらしいのだが、日本で公開されたのは前編・後編合わせて6時間もあったらしい。しかもそれは編集されたもので、実際には12時間はあるものだったという。これはちょっと見る方がばてそうだ。それはともかくとして、今回はショーロホフにまつわるちょっと面白いエピソードを紹介しようと思う。
ショーロホフはあのスターリンと個人的にとても親しかったそうだ。ところでスターリンは『静かなドン』を読んでとある箇所について指摘した。その場面は赤軍の司令官が白軍の捕虜を処刑したのだが、スターリン曰く「裁判にもかけないで殺すようなことはしなかったはずだ」というのである。
並みの作家ならここで唯々諾々と書き直すところだが、ショーロホフはこれを平然と黙殺したという。ここまでなら「おお、ショーロホフってのは剛毅な作家なのだな」で終わるのだが、面白いのはここからだ。
ショーロホフは第二次大戦後になってスターリンがこの世を去ると、『静かなドン』のスターリンが指摘した箇所を書き直したのである。ところがである。2,3年もするとちゃっかりまた元に戻してしまった。
どういうことなのかよく分からないが、ちょっと面白いエピソードだ。
ショーロホフはあのスターリンと個人的にとても親しかったそうだ。ところでスターリンは『静かなドン』を読んでとある箇所について指摘した。その場面は赤軍の司令官が白軍の捕虜を処刑したのだが、スターリン曰く「裁判にもかけないで殺すようなことはしなかったはずだ」というのである。
並みの作家ならここで唯々諾々と書き直すところだが、ショーロホフはこれを平然と黙殺したという。ここまでなら「おお、ショーロホフってのは剛毅な作家なのだな」で終わるのだが、面白いのはここからだ。
ショーロホフは第二次大戦後になってスターリンがこの世を去ると、『静かなドン』のスターリンが指摘した箇所を書き直したのである。ところがである。2,3年もするとちゃっかりまた元に戻してしまった。
どういうことなのかよく分からないが、ちょっと面白いエピソードだ。
