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日記、雑記
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 先日例のユッケによる食中毒問題に関連して、とあるニュース番組で、我が国における肉食文化について解説がなされていた。しかしこれがまたいい加減というか、上っ面だけというか、突っ込みたい気分になったので。今回はこのことをちょっと書いてみたいと思う。
 さてその番組ではまず「日本人は縄文時代狩りをして動物を食べてました」と言った。うむ、それに関しては何の否やもない。しかしその後(といってもかなり時代的には飛ぶのだが)天武天皇の時代に仏教の教えに基づいて「肉食禁止令」が出され、日本人は肉を食べなくなった、と言うのであった。いやいや、それは違うだろ・・・。そもそも天武天皇の食肉禁止令は確か期間限定であったはずだ(ウィキによれば「天武4年4月17日(675年5月19日)のいわゆる肉食禁止令で4月1日(5月3日)から9月30日(10月27日)までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリ)の肉食を禁止した。」とあった)。そしてその後もこの類のお達しは繰り返し出されている。逆に言えば、何度出してもなくならないくらい、肉食の文化が根付いていたということである。そもそも日本古来の神様だって、肉食大好き、生臭大好きな方々がぞろぞろいるのである。とある神社では祭の日に鹿の頭がぞろっと並んで捧げられていたりもしたのである。
 さてニュースの続きでは、明治維新になって海外の文化が流入し、人々に肉食の文化が広まり、牛鍋がブームとなったと締めくくった。いやいや、想像以上にグルメだった江戸の人々だって肉は食べてましたとも。無論おおっぴらには出さないけれど、薬と称して様々な肉料理に舌鼓を打った。また肉料理を扱う店も「肉料理」とは書けないので、「ももんじ屋」と銘打って大変繁盛していたそうである。この種の隠語でたぶん聞いたことがあるだろうが、猪の肉を山鯨、鹿肉を紅葉などと言ったのである。江戸以外でもこの種の害獣を食べることはあったろうし、山鳥なども食べられていただろう。また彦根藩では名物として牛肉の味噌漬けが作られており、これが大変評判であった。これも牛肉味噌漬けとは呼べないので、「反本丸」という名で呼んでいた。日本人得意の建前というやつか(笑)。
 このように日本人はけして肉食文化に疎遠だったわけではないのである。とはいえ、獣肉を生で食べるということには、どうも抵抗を感じるのだが、これが私だけなのか、日本人故になのかはわからない。それにしても、焼肉店に行く人の半数以上がユッケを注文するそうだ。そんなに食べたいかねぇ・・・。

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 最近ニュースで聞いた苗字、「五百籏頭」気になった人も多いはず。「いおきべ」と読むということでちょっと調べてみた。すると五百旗部の表記もあることがわかった。これは予想通りで、おそらく○○部という古代の姓から来ているのではないか、と思っていたのだ。諸説あるようだが有力なのが、第12代景行天皇の皇子・五百城入彦(いおきいりびこ)皇子の御名代・伊福部(いおきべ)からきているという。と言われてもなんのこっちゃ、というだろうから、簡単に解説を。最も私は一度も日本史を専攻したことはないので、かなり適当な解説になると思う。その辺はそんな感じ、くらいに考えてもらいたい。

 さて、御名代とは部民制の中の一つである。部民制に関して詳しく解説すると明日になっても終わらないので、ここは簡単に何らかの形で仕える集団とでも考えておこうか。さて、その部民には大きく分けて二種類ある。一つは何らかの専門の仕事を司る人々の集団、もう一つは王族や豪族に仕える集団である。前者はずばりそのもの職掌が部の前に付く。例えば飼部、錦織部、鞍作部、忌部、卜部、祝部・・・・・・・・・たくさんある。一方後者は仕える対象の名が付く。例えば日下部、長谷部、穴穂部、刑部などは王族の場合で、これを御名代という。一方、豪族の場合は、仕える豪族の名が付く。これは部曲(かきべ)という。まぁ、雰囲気でわかって・・・。

 さてさて、本代の五百籏頭(部)は景行天皇の皇子である五百城入彦皇子の御名代であった伊福部から分かれたものらしい(ちなみに伊福部という姓も現存している)。しかしである。よくよく調べてみると、この伊福部にちょっと問題がある。伊福部は管楽器を演奏しゅる集団、あるいは鍛冶・製鉄に関わる集団、という別の説も存在しているからだ。これはあくまでも想像だが「いふく」と言う語が、「息吹く」で、息を吹く楽器、あるいは製鉄に通じるのだろう。さて困った。ここからはさらに想像であるが、「いおきべ」という音が同一の集団が複数あったのではないだろうか。日本語のややこしいところは、同じ音で表記が異なる場合があることだ。そして歴史上、これが原因で本来別々だったものが、こんがらがってしまうことが間々ある(音が同じものは、その性質もまた通じる、という思想もそれに加わるかもしれない)。
 そう考えると、五百という文字が共通することから、やはり五百籏頭は五百城入彦皇子の御名代の末裔なのだろう。
 蛇足だが先ほど紹介した伊福部の末裔には、音楽家の伊福部昭氏がいる。あのゴジラの音楽を作曲したことで有名な方だが、その系譜を考えると面白い。

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 今回の震災後の全国的な自粛ムードの中、今日のニュースで神田明神(正式名称は神田神社)の神田祭の中止が決定したというのを見た。まぁ中止を決めるに当たっていろいろと検討を重ねた結果であるのだろうから、無関係の私がとやかく言うべき事ではないと思うが、こういう流れはあまり良いこととは思えない。経済的な問題もさることながら、神田祭を中止にするのはいささかまずいのではないか。
 こういった歴史ある神社の祭は、単なるイベントではないし、神輿を担ぐことが愛好する人々のためのものでもない。神事なのである。それも神田明神の祭神は、あの平将門公である。そして祭とは将門公のような荒ぶる神を慰撫するためのものなのである。そして将門公は江戸の地主神と呼ばれたお方だ。この未曾有の大災害に見舞われた今こそ、丁重に祭らなくてどうするのだ。いやいや、まずいですよ。ちゃんと祭りましょうよ・・・。

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 『愚か者の船』(キャサリン・アン・ポーター)を読み始めたのだが、これが大きくて分厚くて重くて、読むのがたいへんなので、以前からちょっと気になっていたブックスタンド(書見台)を購入した。
 実はこれ、3月11日の大地震発生以前にAmazonに注文していたもので、おそらくキャンセル扱いになるのだろうと思っていたのだが、数日前に料金の支払いメールが届いた。支払い後、だいぶ遅れて届くのだろうと思っていたのだが、発送しましたのメールが届き、そして4月1日到着予定だったにもかかわらず今日到着した。佐川が運んできたのだが、そういえば運送大手では佐川は早々に営業を再開していた気がする。その一方でクロネコは被災地の支援に携わっているため(自分たち(クロネコのドライバー)の方が自衛隊員よりも道路を知っているし、地元の人とも顔馴染みであるから、地元の要望を聞いて支援物資を運びたいと申し出たのだそうだ)個別の配達はまだのようだ。

 さてその書見台どんなものなのか、と使ってみた。

    
   
   

 思ったよりも安定感があった。角度も調節できるし、この本はけっこう重いのだがしっかりと抑えてくれている。ページめくりも慣れればスムーズにできそうだ。めくる際に紙が折れる心配もよほど乱暴に使わない限りないと思う。文庫本だとちょっと厳しいが、別の大きめな本を最初に挟み、その上に置けば使えないことはない(文庫なら手に持って読んでも負担にならないけれど・・・)。税込み1105円だと思えば十分な性能だと思う。何か資料を参照しながら書き物をする際にも便利そうなのでありがたい。置物にならないようにちゃんと使います、はい(笑)。

 ELECOM EDH-004 ブックスタンド
B0001CQAAQ





 

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  2011年3月11日午後2時46分ごろ、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生した。私の部屋の時計は未だにその時刻を指したまま、沈黙を保っている。30年周期の宮城県沖地震がそろそろやってくる。確実にやってくる。そう耳にたこができるほど言われ続けていた、その日がとうとうやってきてしまったのだ。
 私が生まれたのはちょうど宮城県沖地震があった年、ほんの数日後のことである。来るのはわかっていた。しかし、誰しもこれほどとは思ってもいなかった。私の住む地域は内陸部であり、今回の地震では壊滅的被害を間逃れた。しかし、沿岸部では正視できないほどの惨状が拡がっている。沿岸部の人々は地震だけでなく、チリ地震津波などを経験し、それに対する警戒も対応も行っていた。ただ誰も予想できなかった。10m、15mというとてつもないものがやってくることを・・・。
 地震発生当時、たまたま私は母と共に自宅にいた。(もしこの時、別の場所にいたら今現在自宅に帰ってこられたかどうかはわからない。JRは未だ復旧のめどが立たず、ガソリンは枯渇しているからだ)。テレビで緊急地震速報が流れた。音声が終わるか終わらないかのうちに、すでに最初の揺れは始まっていた。PCもディスプレイも倒れ、テレビは手前に転げ落ちた。書棚からは本が雪崩のように降り注ぎ、あまりの振動のためにベランダへのガラス戸が開いた。よろけながら階段を駆け下りると、母の悲鳴と共にカップボードからグラス類が落下し砕ける音が響いた。とにかく外へ、家から離れなければ・・・その一心で身一つで外へ飛び出した。近所の人も外へ出ていた。周囲で屋根から瓦が落ちる音がした。ブロック塀、電柱、瓦、とにかく落下したり倒れたりしそうなもののそばから離れ、状況を見守った。その時もまだ大地は揺れ続けていた。
    

 かなり長い第一波がおさまっても、その後は強い余震が立て続けに起きた。私は母と二人でとにかく必要なものを外に持ち出した。お隣の車のラジオから聞こえてくるのは、沿岸部に津波がやってくるという情報。しかしこの時、いやだいぶ後になるまで、我々はそれがどれほど物凄いものであったのかを知ることはなかった。ライフラインは一瞬で壊滅した。とにかく父が帰宅するまでの間、寒さに耐え、余震に怯えて過ごした。我が家の猫は地震発生時にどこかへ駆けて行き行方不明になった。
 夜、ようやく父が帰宅し、とりあえず安全な車内で過ごせるようになった。しかし、情報は錯綜していてなかなか状況がつかめない。実家の方の安否も不明。そこでとりあえず実家の方へ移動することにした。行く途中、道路はところどころ隆起し、あるいは段差ができ、橋には隙間があった。闇に包まれる町を駆け抜け、実家へ到着すると避難所となっている小学校にいるという張り紙があり、無事に合流を果たした。誰も怪我をしたものはいない、それだけで嬉しかった。その日はそのまま車内で夜を明かした。余震は夜通しなり続けていた。その夜、私は知った。沿岸部が壊滅的な被害を受けたことを・・・。何もなくなった市街地、おびただしい数の犠牲者…。悪夢としか言いようがない。
 翌日になり自宅へ戻った。自宅は幸いにも物が散乱した以外は特に被害はなかった。行方不明だった猫はこたつの中に潜んでいた。飲まず食わずでじっと息を殺していたようだ。良かった。しかし、それから数日のライフラインのない生活は想像以上に神経をする減らした。都市ガスではなかったため、煮炊きができたのは良かった。何よりも沿岸部の被災者のことを思えば、我々は恵まれている、そう思った。それでも闇夜の中、強い余震があると身の危険を感じた。沿岸部の被害の甚大さは新聞の写真で、そして電気復旧後のテレビでまざまざと見せ付けられた。正直言ってもう見たくはない。なのになお毎日テレビではそれを流し続け、被災者にそれを見せ続けている。深夜には再放送までしている。もうやめてほしい。
 ここまで長々と書いてきたが、自分で何を書いているのか、あるいは何を書くべきなのかわからなくなってきてしまった。極力感情は込めず、淡々と事実だけを書いたつもりだが、なお整理しきれないものがあり、このあたりで書くのをやめようと思う。
 最後に、今回の地震と津波で亡くなった方々に哀悼の意を表します。

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